旅先で撮った写真をぼちぼち上げています

マラフレナ2005/06/10 00:49

アーシュラ・K・ル=グインの「マラフレナ」を読みました。
サンリオSF文庫。数年前に古本屋さんで見つけて、今やっと ページを翻き、読了。
この作品は、ゆっくりゆっくりと読み進めなければならない作品でした。それも筋を追わず、ただその時語られる情景にひたすら耳をすませるようにして。
私はきっとそういう心境で本を開くことが出来るようになるまで、待たなくてはならなかったのでしょう。

読み終わっての感想。
ル=グインは、誰も読んでくれる人がいなかったとしても、この作品を自分のために書いたのではないかと思います。この作品の一番の読者はきっと彼女自身でしょう。 自分のために書いた物語。
今、ハリー・ポッターシリーズを書いているローリングさんも、同じ力につき動かされているのではないかと思ったりして。

ヘイティキ2005/06/14 04:59

ニュージーランドにはヘイティキというお守りがある。緑色の透明感のある強靭な石で作られている。人の形をしている。坐像だ。首を傾げている。目が大きい。それは島の人々の祖先の姿を象ったものだが、やや人間ばなれしていると言わざるをえない。
なぜわざわざそんなデフォルメされた形に造られたのか。
それは石を借りて再現された祖先が、実は神様でもあるからだろう。変な神様?
でも神様はたいてい異形の姿で現れる。異形であることは、尋常でない力が宿っていることの現れなのだ。 四葉のクローバー。夫婦株の大樹。奇岩。天才を示す奇矯な性格。ひとめをひく奇抜な容貌。まあ、そんなとこ。

幼いときの記憶2005/06/15 06:52

幼稚園の頃の記憶は断片的にしか思い出せない。
朝待ち合わせの場所から歩いて通って、毎日何かして遊んだ。だが何をしていたのか。帰る時間になると園の運動場に全員集まって行進しながら並んだ。左端の列から順に園を出てゆき、自分たちの番がくると2列で行進して帰った。多分、家の方角で列分けをしていたのだろうが、そんなことは気づかなかったと思うし、覚えてもいない。行進の音楽は「双頭の鷲の旗の下に」だった。小学生か中学生に上がってから、音楽の時間にこの曲を聞き、曲名を知り、母親にねだってレコードを買ってもらった。
歌や音楽は好きだったのではないかと思う。子供はみんなそうかもしれないが、よく歌を歌った。海底少年マリンやウルトラマン。幼稚園では、童謡を習ったようだが、やはり記憶はぼやけている。「海の底には青い家…」という歌が好きだった。が、卒園と同時に歌詞はうろ覚えになり、ほんとうに長い間、この歌を聞くことなく、曲名も知らずにいた。昨年インターネットで調べてようやくその欠落が埋まった。インターネットは偉大だ。(情報を提供しているサイト管理者が偉大なのだ、というべきだろう)
しかしまだ再び歌を聞く機会はない。

思い出せる記憶は、ほとんどあらゆるものが断片的な場面、場面として浮かんでくる。まるで場面が目まぐるしく変わる劇を見ているような感じだ。象徴的なシーンが(各場面には言葉に表現出来ない、ある種の感情や気持ちがこめられているという意味で)、相互の連続性を断ち切られて孤立している。それらは私に懐旧の念を呼び起こすとともに、再び相互の関連を思い出せ、見出せといっているようだ。

あるいは事実はその逆であろうか。
象徴的なシーンが強烈に記憶に残っているために、ほかの数多くの月並みなシーンは、影に埋もれて浮上することが出来ないのかもしれない。
なにか特別の出来事(文字通り特別である必要はないが)が起こったとき、そのシーンは記憶される。 しかしなにも起こらなかったとき、ただ私が存在していたときのシーンは、ほかの巨大な時間の積み重ねと区別が出来ないために、混ざり合い、個々に生き残れないのかもしれない。
それは海の水が昨日も一昨日もいつも同じ味がしているために、後になって、これは昨日の水、これは一昨日の水と区別できないといったことかもしれない。